IY Railroad Consultingから発信される「IY interview series」。
第2回目となる今回ですが、お相手は「まち探訪家・鳴海行人さん」です。「まち」の専門家として東洋経済などのメディアでも活躍されている鳴海さんですが、今回は「鉄道とまち」というテーマを中心に、鳴海さんの経歴も含めてお話を伺ってきましたのでご紹介させていただきます。
前・後編と2部に渡ってお伝えしてまいります。
取材日:2019/11/23
■ 鳴海 行人(まち探訪家)
1990年、神奈川県生まれ。
学生時代に地方私鉄とまちのつながりや駅の空間を中心に研究活動を行う。
大学卒業後は交通事業者やコンサルタントの勤務等を経てフリーに。
2017年から「まちコトメディア」の「matinote」(http://matinote.me/ )でライター兼編集を務めるほか、「まち」や「交通とIT」などをキーワードにさまざまな媒体で活動を行う。
最新情報はツイッター(https://twitter.com/mistp0uffer )で配信中。
■「鉄研」での先生との出会い
(西上)
「まち探訪家」という珍しい肩書きをお持ちの鳴海さんですが、現在のお仕事に至るまでの経緯や、このお仕事をされているルーツなどを伺えますでしょうか。
(鳴海)
今の仕事は偶然が重なった結果だと思います。中高時代は「鉄道研究部」に入部していました。でも当時、特に鉄道に興味があったわけではなく、旅行が好きでした。学生というのはお金がないものですが、私は親からお金をもらって旅行に行く”ズルい”方法はないか?と考えたのです。その結果、鉄研なら合宿の名目で旅行にいけるのではないかと気づき、鉄道のことはよくわからない状態で入部しました。
(西上)
それでは当時は鉄道研究部に入ったにもかかわらず、鉄道ファンではなかったわけですか?
(鳴海)
正直、模型や電車の種類なども、全く興味がなかったですね(笑)ただ、部活に入ったからには知識をつけないと、という思いがありました。
加えて、書き物をしたかったという思いもあったので、部活で「研究班」に入りました。当時の顧問の先生が鉄道史学会所属の方で、研究にやる気のある人に指導をもらったことが、現在ライターを仕事にしていることにつながるターニングポイントになっているとも言えますね。
■ 学生時代に地方鉄道で気づいたこと
(鳴海)
高校2年生の時に地方鉄道について研究しようと、上田電鉄をピックアップして調査する機会がありました。
ある夏の日、調査のために上田電鉄に乗って周りを見渡すと、スーパーの袋を持って乗っている方を見つけました。上田電鉄は決して速い列車ではなく、便利なダイヤでもありません。ロードサイドにはスーパーがあって車で買い物に行く人がおそらくほとんどを占める場所です。それでも買い物のために鉄道を利用している人がいたのです。そのとき、「なぜこの人は鉄道を使っているのだろう?」という疑問を持ちました。
当時は上田駅前にイトーヨーカドーがあり、買い物袋を持っている人はそこからの帰りであることに気づきました。そして同時に「人は目的があって移動している」ということと「鉄道が利用されるのは移動の時、便利で楽な手段だと利用者が感じる時だ」と気づきました。それからは「乗って残そう」という鉄道だけで完結した利用促進施策に疑問を感じ始めました。
(西上)
そのような施策というのは、「目的」と「手段」が逆になっているという考え方ですか。
(鳴海)
鉄道はあくまで目的地への移動「手段」だと考えています。そもそも鉄道に乗ることは移動先で達成する「目的」のためです。ですから、鉄道に限らず「目的」地がなければそもそも移動が生まれません。そして、目的地への利便性や優位性がなければ鉄道を利用しようと思わないはずです。ですから、鉄道駅周辺に起点となる住宅地、そして目的地となりうる市街地や工場、あるいは大型商業施設といったものがあった上で鉄道駅とそれらのエリアの間の連絡がよくなければ鉄道が使われることはないといってよいでしょう。
もちろん昔は貨物輸送を主体とした鉄道路線も少なくありませんでしたが、今は大半の貨物輸送がトラックによる輸送に変わっており、鉄道はほとんどの路線で旅客輸送に頼らざるを得ない状況であります。そんな時に、鉄道をはじめとした交通を考えるには「まち」全体をみないといけないという考えになりました。
■大学で「空間」の考え方に出会う
(西上)
元々、なぜ書き物をしたいという思いになられたのですか?
(鳴海)
私は元々読み物が好きで、いわゆる「活字中毒」の類です。なので、中学高校はジャンルを問わず、様々な本を読んでいました。
そのうちに何か自分でも読んでもらえるものを書いてみたいと思いはじめたのが書き物をするようになった経緯ですね。
(西上)
そして、大学に進学されることとなりましたが、ここでも何かいまにつながるようなものがあるのですか?
(鳴海)
大学を選ぶ際に色んなことを学びたくて観光学部を選択しました。元々旅行が好きというのもありますが、観光は政治・経済から法学・文化人類学・地理学と様々な学問の要素を内包しています。私は様々なことに興味を持つので、おそらく大学で興味のある分野も移るだろうと思っていました。そこで幅広い分野のことを学ぶことができ、その上で興味の対象が変わってもいいようにしておきたいという思いがありました。
結果的に空間文化を学ぶゼミに所属し、人の流れ・行動や印象をも変える「空間」というものの重要性について深く学びました。大学での学びは私のいまの考え方を形作る重要な要素になっています。
(西上)
大学後の就職時に、鉄道からのまちづくりに関わることも考えられたのですか?
(鳴海)
大学で様々なことを学ぶと同時に大学の外ではツイッターなどを通じて、モビリティマネジメントの界隈の方々と交流を持つ機会がありました。そこで「交通機関は適材適所で整備するべきである」という考え方を身につけました。
また、鉄道は固定資産で、易々と敷き直すことができないため、まちの変化に対して鉄道は脆弱だと考えるようになりました。その上で「いかに鉄路を守るか」と「手段ファースト」で考えている鉄道会社をフィールドにして仕事をすることに不安があり、積極的にはなれませんでした。
■ 意外にも地元の「まち」への愛着は薄い
(西上)
「まち」への興味というのは地元から発生するものかと思いましたが、鳴海さんの場合はそうではないのですね。
(鳴海)
当時住んでいた場所の最寄り駅近くにある商店街は電柱地中化を早くから進め、美装化も行った場所で、昔は各地から視察の方が来ていました。ではいまのまちはどうなっているかというと、美装化した結果、テナントの賃料が上がってしまい、美容院が中心になっています。商店街の人や車の通行量は多いですが、買い物を目的に来る場所ではなくなっています。私にとっても魅力的なお店はほとんどなかったですね。
だからいつも学校帰りに商店街を通っても書店以外は素通りでしたし、我が家は買い物に行くときは車で行っていました。いま思うとそのあたりは地方都市の暮らしに少し近かったように思います。
また、高度経済成長期にベッドタウン化したところでしたので、人口密度ばかりが高い無味乾燥な場所という思うことが多く、地元のまちに愛着はなかったですね。
(西上)
駅周辺のまちにあまり興味がなかったということですか?
(鳴海)
最寄り駅やその周辺のまちは通学のとき、あるいは少し離れたところに行くときに通過する場所でしかなかったですね。だからこそ先ほど話した上田電鉄での気づきもあったのだと思います。
都市部で生活している人の多くは「電車に乗るのが当たり前だろう」と考えていると思うのですが、私の家は「買い物のためにわざわざ電車に乗らない」生活でした。そのため、車を使う方が便利じゃないの」と思っていました。なにせ旅行でも学生の時は車の免許を持っていないから仕方なく鉄道を使おうと思っていた部分も大きかったですから。
(西上)
例えば、地元が観光地だったり魅力的な土地だとしたら、今と違って地元に愛着があったと思いますか?
(鳴海)
もしかしたらそうだったかもしれません。小学生の頃、父の転勤で仙台近郊に2年ほど住んでいたことがありました。結構家族でいろいろなところに出かけて自然に触れる機会が多く、いま振り返っても楽しかったなと思いますし、住む期間がもっと長かったら愛着もあったでしょうね。
また、父の実家が山の中腹の限界集落にあり、買い物する場所まで車で30分弱かかるような場所でした。鉄道やバスにも縁がないような場所で、どうやって人々は生活しているか興味を持ち、祖父に昔話も含めて様々な話を聞きましたね。ある意味愛着のある場所です。でもこうした場所が「地元」となっていても交通やまちに興味を持つことはなかったと思います。
(西上)
地元に愛着がなかったからこそ、様々な気づきや問題意識を持つことになった、ということですね。
いかがでしたでしょうか。
このつづきは、【対談】まち探訪家・鳴海行人氏が語る、「鉄道とまち」について(後編)でお伝えいたします。